[PD治療失敗雑記その1]PD(パニック障害・パニック症候群)に心が折れそうな日々

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私がPD(パニック障害)を発症してから15年になる。
良くなったり悪くなったりを繰り返して現在に至っている。

パニック障害の発症

始まりは、大手ゲーム会社に勤めていた時期だった。
小さな兆候はすでに20代前半から何度も見られたが、それがパニック障害であるとは思いもしなかった。
そして大発作が起きた。
早めの夏休みを取り、実家で休みを取っていた。
少し早めに自宅に帰宅しておこうと実家から帰る日、その日はむせるほどの蒸し暑さで満ちていた。
たまたま月経2日目で一番重い時だったにも関わらず、あまり気にせず電車に乗り込んだ。
車内は外の蒸し暑さのせいかキンキンに冷え切っていた。
夜も遅かったため都心へ行く乗客も少なく、さらに途中で5分ほど停車時間があった。
最初の予期不安の兆候があった。
そこで実家に戻れば良かったのだが、何故だか家に帰りたかったらしく車内の寒さで下腹部は痛みと冷えを起こしていた。
ようやく発車するも、やはり月経が重かったことや腹痛も併発し始めて駅のトイレへ駆け込むようになった。
外の暑さと車内の寒さを繰り返し、遂にとある駅のホームから動けなくなった。
まだ最終電車区間外のエリアだった。
終電時間まであと3~4時間ほどあったと思うが、すでに予期不安の兆候で一駅ごとに降りるを繰り返していたため体の感覚がどこか変だと思い始めていた。
とにかく『何とか最終電車区間まで行かなければ…』と焦っていた。
そして電車内でめまいを起こし、体は冷や汗をかいて座り込んでしまうようになってしまっていた。
ようやく最終電車区間の駅にたどり着いてから、少し時間をおいて落ち着こうと躍起になった。
自分が落ち着いたと思い、乗り換え電車で座り発車して間もなく、脳に稲光のようなものが走って目の前が真っ暗になった。
さらに吐き気とめまいが同時に襲い、椅子に倒れ込んだ。
乗車している人が少なかったがその挙動を見ると周りから人が少なくなった。
『次で降りますので、すいません。すいません』
周りに謝って次の駅で降りた。
その次の駅が最寄り駅だったとしても。
最後の一駅が地獄だった。今度は電車のタラップに上がれなくなってしまった。
何本も電車が通り過ぎていく。
そのたびに体が震え冷や汗をかく。
どうしたらいいかわからない。
頼みの綱は、当時とあるコミック原作のアニメを通じて知り合った友人だった。
友人に携帯でメールをした。
当時はTwitterやFacebookなどのSNSやブログすらなかった(mixiも招待制の時代)ので、気持ちのはけ口がなかった。
ショートメールしかなかったガラケー携帯時代。
それでも友人は真摯に私の気持ちを受け止めてくれてメールを通じて側にいてくれた。
何とか気持ちを落ち着かせて、メールをやり取りしながら電車に乗って何とか最寄り駅につくことができた。
現在は年賀状やメールでのやりとりくらいになってしまったが、心の命を救ってくれた彼女にはとても大きな感謝と借りがある。
何とか返したいのだけれど、悲しいけれど今の状況ではまだ彼女の前にすら向かうことは叶わない。

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パニック障害発症後から現在に至るまでの経緯

最初の大発作の後、すぐに心療内科に受診した。
予約制の医院なのにたまたまキャンセルが出て、初診を受け付けてくれた。
担当の先生は、大きなクマのぬいぐるみのようなふんわりとした雰囲気で優しく、話をきちんと聞いてくれる方だった。
症状のことや処方薬についても丁寧に説明してくれる、とても安心のおける先生に出会えたと思った。
処方薬も少量ずつから始め、増薬・減薬を繰り返しながらも少しずつ良い方向に向かっていたが、多忙な仕事(とプライベートな部分)関係でいろいろありうつ症状と併発するようになった。
二度の休職の末、円満退社…ならぬリストラされた。
三年ゆったり治していった中、資金が尽きかけた。
パートを探していた時、会社員時代にある人物を介して知り合いになったゲーム開発会社の社長さんから声がかかり、仕事をいただいた。
その仕事は『失敗』を迎え、かつ業務委託の契約を結んでいなかったのとろくな仕事を成さなかったので『お手伝い』となったけれど、請求金額は約1年かけて支払われた。
資金がすぐに尽き、さらに時に遅し。再びPDとうつ症状は揺り戻された。
家賃も滞り、都下にある実家に戻ることになった。
初めはゆっくり治療しながら最初の心療内科へ通っていたが、去年、頭から内臓から悲鳴が出るほど体が動けなくなった。救急車にも乗った。
検査をしたが結果は機能性胃腸症。これも原因はストレス。つまり脳の状況が起因である。
今もストレスで吐き気がすぐに起き、都心の心療内科へ通えなくなったため市内の精神科病院へ移った。
次第に乗り物の前に立つと、吐き気と脳がユラユラし移動できなくなってしまった。

他に子宮筋腫を抱えて通院を重ねているが、子宮と腸が癒着しており安易に手術、というわけにはいかない状態。
20代の頃小腸からの出血により、すべての腸を出して切除して体に戻す手術を行っておりそれが起因ではないかと医師からの説明を受けた。
その癒着によって他の箇所への病気併発を懸念され手術を断られた。
さらに「手術をしたいなら他の病院を探してください(紹介の『しょ』の字もなかった)」と言われた。
何故手術を求めたかというと、前章で書いた通り最初に大パニックを起こした日は、月経2日目で出血も多く腹痛にも見舞われた暑い日。
血の気も減って力を出なく脳にモヤモヤした中、冷房の効いた電車と暑いホームとの乗り降りを繰り返した中、電車の中で倒れた。
だからこそもうすぐ必要のない子宮を切除して少しでも不安定な日々から解放されたかった。

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叶わない現実、それが今の現状だ。

ZUNTATAのコンポーザーで作曲家の土屋昇平さんのブログでPD(パニック障害・パニック症候群)持ちだということを知った。
現在は復帰に向けて寛解しつつあるようで何よりです。

https://shoheitsuchiya.amebaownd.com/posts/2974160

どう症状と戦いつつ認知治療をしているのか書かれていて、思ったことは「いい医者に出会うこと」「認知治療がしやすい環境にいること」。
正直羨ましいと思った。
都心にいた頃は「いい医師に出会えた」し「認知治療をしやすかった」。
ショッピングをしたり、映画を観たり、ゲーセンへ行ったり、コミックマーケットへも行っていた。
でも今は違う。
「鉄腕DASH!」で東京の田舎として紹介された場所である。
ここから行きたい場所へ行くとしたら『朝早く出る、夜早く出る』が必須になる。

昔はもっと気楽に気持ちが切り替えられたり別の事を考えられたけれど(携帯ゲーム機もあったし)、今は切り替えられる気持ちも認知治療に掛けられる費用も捻出できないので、どこにも動けない。歩いて近くを移動することしかできない(実質精神科への通院は徒歩で40分以上かけて出かけている)。
もっと早く働けるうちに仕事を見つけて働いていたら、都心から離れることもなかったかもしれない(口約束は信じていけないものですね)。
もう諦めてしまいたい。とても辛い。どこにも行けないことがこんなにも悲しいなんて。

今後もこんな話をつらつらと続くのをお許しください。

現在療養中のためフリーランスを装いながら無職モードで細々生息中。海外ドラマからWebネタ、ゲーム・Apple・iPhone・音声合成・MMDなどの様々なガジェットを、おばちゃん視点で紹介しています。

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