[日本史]突然ですが推しを語っていいですか?

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タイトル通り、個人的に好きな日本史についてメモや考えを二次創作的に(ここ重要!)書き残したいと思っています。
かなり長文ですのでお覚悟を。

本当はnote とかでやればいいんじゃないかと思ったのですが、せっかくブログを持っているのだからそこで好き勝手に書いてもいいじゃないか、と思ったわけです。

正直言いまして、X(旧Twitter) では下書きがいっぱいでツリーが長くなってしまったので、これはブログにまとめればいいじゃないかと。
いつか消えてしまうかもしれないこのブログですが、もしそうなったらnote にもミラーを作る予定です。

というわけで、まず私の推し歴史上の人物の紹介です。
昔だったら、なんでそんな人物を好きになったの?とツッコミが入っていたんですが、まぁ大河ドラマにも何度か出ていますし、でもいつもヒールキャラクターか没落したキャラクターと思われる人物です。

ただ久々に調査復帰したら、わけがわからなくなってしまい本当に謎の人物になりつつあります。
その人物とは…

松殿(藤原)基房、です。

わかります。なんで彼なの?他にもいるじゃないか!?
でも彼の人生は前半生で終わったわけではなかったことを調べてわかり、しかも『有能』な人物だったということです。
でも、ぶっちゃけると

ここの兄弟、彼を兄弟として見ていない。

と思っています。
有能だけれど根本的にネジが外れているところがあるのが、藤原忠通の子どもたちだなぁと思います。
忠通が側室の子ども(基実・基房)に冷淡すぎて、異母弟の頼長が代わりにいろいろやってあげていたという事実があったりします。
その後、忠実・頼長と仲が破綻したため兼実以降は不明ですが、兼実たちの母加賀は正室宗子付きの女房だったので、宗子に認められた上、忠通は加賀を愛したようです。そこが基実・基房兄弟とその下の兄弟との違いかと。

忠通は基実を後継者にしたあと、兼実を聖子、そして基実の猶子にしています。兼実は基実を『殿(死後は故殿)』と慕い、忌日になると外出を控えたほどです。
構図的には基房は家族から完全に「庶子」扱いされていたことになります。
だから基実死後、基房に摂禄が回ってきた時は確かに「中継ぎ」であり、基実の子基通に譲られるものと誰もが思ったのではないでしょうか。
基房も自分が中継ぎであったことは自覚していたと考えています。しかし兼実、皇嘉門院聖子は非協力的で、なおかつ基通は公事などを学ぶのが好きではありませんでした。
基房が流罪になり基通が摂政になったとき、兼実がサポートしていました。ところが兼実や近衛家の書庫にも存在しない公事の口伝があり、その時点で基房のみ口伝されていたようで、摂関家の家説とは異なる説で行事を行おうという動きすらありました。
基房は師長(頼長の二男で庶子)のように基実の北政所・平盛子と再婚しようと妻と離縁し、再婚しようと画策し実行していないのですが、最初の正室の間に嫡男家房が生まれたのち、平清盛長女と花山院兼雅が結婚した翌年に兼雅の妹と結婚(しかも敢えて不例の嫁入り婚)することになるのです。
あながち盛子と結婚できていれば、分家はもう少し遅くなり家流の伝統をバランスよく伝えられて守ることができたかもしれないと思ってしまうときがあります。

兼実はこの時代屈指の『有職故事家』と思われていますが、基房に教えを請わないと進まなかったことも多々ありました。それは『基房問答』として断片的に現代に残されています。
かなり有能だった基房に対して、基実は基房と仲が悪く『宿意』を抱いたと思われていますが、果たしてその通りでしょうか。

基実が持てなかった部分(忠実との会話から「メリットのないことをして何がいいんだ。そんなのしたくない」と言い放って落胆させているほど『不忠』な印象)を基通に与えることも可能だっただろうし、分家ももう少し遅くなり家流の伝統をバランスよく伝えられて守ることができたかもしれない。
しかしそれが不可能と拒否されたため、忠雅との結婚で平家とのバランスを保ったと想像できるのですが、どうして反平家人物になるんですかね。後白河院にも気に留められていたくらいなのに、その間に入った平清盛がそのバランスを崩したと考えたほうが妥当かもしれないです。

これは、基房が幼少時に実父・忠通の下で育てられて、忠通から九条流・御堂流の有職故実を直接伝授されたこと、共に伝授を受けた異母兄の近衛基実の早世によって九条流・御堂流の口伝を知る者が基房のみになったこと

Wikipedia 松殿基房 項より

貴族の子どもは生育儀礼として「戴餅」というのを行うのだけれど、頼長の日記『台記』には基実と基房の戴餅儀式を頼長が行っている記述があるのです。

天養二年(一一四五)正月
五日(辛亥)高陽院において予、摂政の児の戴餅、件の児、去る二月四日この院に迎えらる。本、その母中納言典侍宅に在り。殿下愛さず、又沙汰せずと云々。
去去年生まるる所なり。
六日(壬子)、高陽院に参る。戴餅によるなり。
七日(癸丑)、内より高陽院に参り、戴餅おわりぬ〈束帯ながらなり〉。

藤原頼長『台記』より

「摂政殿下」とは忠通のことで、中納言典侍とは基実の母信子のことです。信子は日記を見ると女官として宮中に勤めていました。源国信の一女として生まれましたが父国信は43歳で亡くなっており、確か女叙位で従五位下を賜った時の記録があったと思います。高陽院には忠通の姉泰子がいました。「去る二月四日この院に迎えらる」とあるのは、基実は高陽院泰子の猶子として迎えられたということ。「本」は本当は母中納言典侍邸で育てられており、 戴餅の沙汰もなかった。何とか高陽院に去年二月四日に迎えられたが、基実の戴餅を頼長が奉行したと解釈できます。
これを兼長を養嗣子にする条件付けとしたという説もありますが、その後の基房の戴餅でも同じ言葉が繰り返されているので、体裁が悪いのではなく忠通が冷淡だったため、頼長が手を差し伸べたのだと考えられます。
何しろ基房の場合は、頼長の息子と一緒に戴餅の儀式を行ったからです。

いつ頃、彼が「推し」になったのか?

話はそれこそ古い話になるので簡潔にまとめると、

  • 高校生の頃、とある歴史本を読んで基房の存在を知った。
  • 友人と軽い気持ちで交換絵日記を描いてマンガを描いた。黒歴史というヤツですね。
  • それでも基房たち(たち、とは登場人物のこと)が忘れられず、いろいろと調べるようになった。
  • かといって当時は学生で、今のようにインターネットでいろいろな当時の日記や史料を見ることはできなかったので、Wikipedia 程度の知識で止まっていた。
  • 2012年大河ドラマ「平清盛」で基房役の俳優さんの怪演技が光り注目を浴びた。
  • その頃はX(旧Twitter) もやっていたので、少しずつ調べなおしていたけれど仕事が忙しく手を付けることができなかった。
  • その後、脳が壊れ完全にシャットダウン。
  • 何がきっかけか思い出せないけれど、基房とその子孫たちが気になるようになった。
  • ついでに基房の寵臣、六条藤家の藤原顕家の家系も調べるようになった。
  • 基房の子孫について、驚くような出来事がいくつも日記に残っていたことがわかったけれど未だに注目されていない。
  • しかし基房の故事公事家説など有識に関する再評価が少し起こっている。
  • ただし、松殿家が没落したのは事実なのでそれは不問。

こんな感じです。

やはり自分で『兵範記』『玉葉』『愚昧記』『吉記』『明月記』『三長記』『民経記』などの日記に目を通すようになったのと、日本古代・中世史研究者の論文を見つけては読んで、これまで知りえなかったことがわかったのが一番大きいです。

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以下推し雑談

異母弟の兼実、彼に仕えた藤原定家の評価は、私情や私怨に満ちていることが多いです。
同じ時代を生きて平家とも因縁のあった藤原(吉田)経房の評価は、全く正反対とまでは行かずとも(何故この人物を起用するのか理解に苦しむ時なども書かれています)第三者的視点で見ており私情は入っていません。
例えば、木曾義仲政権の頃基房の嫡男師家が摂政になりました。基房のゴリ押しと兼実らは批判しました。しかし実情はちょっと違ったのです。兼実は後白河法皇を良い印象を持たず不快に思いながら仕え(基房は後白河法皇推しだったのは元服後間もない頃の行動からも察せられます)、平家が西国へ落ちて後白河法皇が安徳天皇の代わりの天皇を践祚させました。
「たまきはる」(建春門院中納言日記)の中でも中納言は法皇から第三皇子か第四皇子どちらを選ぶか腹の中をそっと告白されたことが描かれています。
無論、義仲が推している北陸宮は自分の第二皇子以仁王の王子ではあったけれど出自不明の母で、推すことは決してありませんでした。
寵愛した建春門院が生んだ高倉天皇の第三皇子惟明親王1の方がまだ後見人がいたことがわかります。
安徳天皇の異母弟で平家と西国へ落ちている第二皇子守貞親王の実弟、第四皇子尊成親王が天皇に践祚されます。

木曾義仲政権の瓦解までの間、政界は停止していたのでしょうか?

師家はこの時内大臣を借りて任官し、摂政として役目を果たしています。除目の取り決めを2回行なっています。まだ12歳でしたので基房の補佐がありました。無論、基通に摂政が戻ってきた時に兼実が「これは不当な政権下で決められたもので破棄すべき」と異議を申し出ましたが通らなかったようです。

そもそも尊成で問題ないかの意見を左右大臣に聞いていますが、当時藤原俊経の下で蔵人を務めていた藤原親経が堀河大納言こと藤原忠親の元へ訪れ、松殿入道に意見を求めています。そして左右大臣、公卿たちに意見を聞いて取りまとめを行なったのは松殿入道こと基房でした。これは「権中納言藤親経卿記」の寿永二年辺りに書かれています。兼実もこの件に意見に答えており、基房が取りまとめたということは、長く後白河法皇院政下で摂政・関白を務め、公事に長けてかつ後白河法皇に物申せた人物だったことの証だと思います。

義仲が焦り、後白河法皇を北陸へ下向させようとした時に加担したとされ、基房と師家は逆鱗を受けて解任されます。基房と師家は蟄居しますがその年月は後白河法皇崩御の前年までの8年間。最期の別れか先方から会うことを許され蟄居が解けました。普通なら許しを乞うことも可能だったはずですが、基房はそんなことを全くしませんでした。

その間に兼実はいろいろな困難があったり自分が摂政・関白になるのですが、基房にしかわからない公事や家説を聞こうと文を送っても代理人(家司)経由でしか受け取らず、返答も同様でした。
結果的に兼実は娘を入内させて中宮にするも皇子に恵まれず、再び基通が返り咲くことになります。

蟄居が解けたあたりからようやくまともな問答を聞くことができるようになり、基通は息子の家実に基房との交流をさせています。基通は近衛家にある書庫の中身を読むのが好きではなかったようで、それで兼実とともに困難があったわけですが、ひとえに基房がいなかったそれだけで起こっているので、それほど基房の存在は大きかったと思われます。
もし基房が死んでいたら、彼が口伝されていたものが伝わることなく、代わりに他家が伝えていた花園説が主流となり摂関家そのものが瓦解していたかもしれません。

つくづく基房が長生きで良かったと思えます。
松殿家そのものが残ることに執着していたかは基房自身しかわかりません。そういった行動をしていたようにも見えますが、彼自身庶子であることを理解し家族に後見者がいないことを考えると一代限りと思えなくもありません。北政所の忠雅女は婿入りではなく嫁入りなので財産持たず結婚したので次第に財産が枯渇。嫡男師家には所領を渡さず。その後生まれた忠房とその母に譲っていることからも花山院家の流れではなく三条家の流れを重視したように思えます。
藤原行雅は藤原公行と藤原忠宗女との間に生まれており、育子の中宮大夫を務めた藤原実長の異母弟にあたります。最初の正室公教女は祖父藤原実行の養女になったと「玉葉」にあり、行雅はいとこにあたります。ただ忠雅の養子になったので花山院家の庇護を受けて育ち兼雅の下で受領で終えていることを考えると、花山院家の恩恵は実質それほどなく(治国などを歴任してはいる)娘が堀川局と呼ばれたのは、どちらかというと忠親の邸近くにいたのではないかと。彼女たちの生母については不明ですが、未だに難波家(師実五男藤原忠教の家系。忠教は花山院家祖である家忠の養子になっていて、忠宗あたりまでの記録を見ても忠教の子孫と一緒にいることが散見)との接点があればその近親が相手、という妄想も浮かんだり。

基房は86歳でこの世を去ります。
死後、忠房母に譲った所領は師家側が奪ってしまいます。師家にその気迫があったかはわかりませんが、彼の息子基嗣はそういうことをします。さらに基嗣女が三条家の所領を奪おうと画策しています。基嗣は所領めあてに平光盛女を奪い無理やり妻にしています。実際にその所領が基嗣に奪われたかはわかりませんが。
一方、師家は北条時政女と再婚します。時政女は牧の方が生んだ娘で宇都宮頼綱の妻でしたが、牧氏事件で宇都宮家頼綱の出家後に離縁したのか京へ上洛。他の姉妹が貴族と結婚していたこともあり、何を思ったか師家と再婚することに。互いに老いてからの再婚で、しかも師家は他の姉妹のように多くの所領持ちでもない(忠房母が伝領し奪った所領はさほど多いとは言い難い。むしろ前室公教女のほうがあらゆる貴人たちとの交流や所領も邸もあり経済的基盤を持っていた)。どこに惹かれたのかは謎ですが、基嗣が行なった行為に対してすぐに光盛や元婚家に謝りを入れたりしているので、不逞な行動に対して即座に謝れる誠実さを持った人物だったと考えられます。「明月記」にこの再婚について書いていますが師家のことをなじったりしていません。

松殿家は早く没落し消えてしまいますが、一度家を復活させられています。しかしすぐに断絶。ただ女系を通じて現代にその血は残っていると考えられます。まだ調べている途中ですが。

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おまけの与太話

伊予内侍こと藤原説子と基房は特に男女関係はない、と思います。
まず孫とされる藤原実忠の実父は藤原公国。これは「明月記」にあります。公明がずっと少将のままであった状態で、摂関家の女子を妻に迎えるとは考えにくい。また八条院に仕えた基房女が実在しましたが、公国と同年代であったよう。基房の長女かと。八条院から所領伝領の沙汰があったようですが、基房の蟄居により反故になったようです。その後の彼女は行方不明。
娘とされる西御方ですが、母は八条院の母美福門院の頃から女房であったようで、八条院が西御方母尼が住む宇治の邸に方違をしています。母尼が病に罹り西御方が住む邸(八条院当年給)に移動。同じ頃病であった中納言の代理で定家が見舞いに行っています。西御方と中納言は懇意の仲だったようです。正治年間に西御方の母尼が死去。
で、伊予内侍っていつ死去しましたっけ?
安元の時期なので20年以上違いますよね。
つまり八条院西御方の生母は伊予内侍ではないわけです。
春華門院の遺領状に「西御方間」という一通があったようですが内容は不明のまま。他の特定女性(中納言、三位局など)も同様。謎のまま。

夫とされる公明は寿永3年頃、兄が侍従に叙されたので自分も侍従になりたいと奏上したことが日記に残っています。その数年後ようやく侍従となっているので放逐されていた時期があり、少将になれても長期間上に上がることができず、定家に「上の人たちがあれこれ奏上して上がりたいと動いていますね(私には到底できないことですが的な感じで)」とぼやいたようです。定家とは縁戚にあたるので兄とともに交流があったようです。従三位になって非参議になれたのは死去の3年前。
そして実忠は少将時代、藤原忠嗣(卿局の猶子)とともに後鳥羽院の寵臣で常に随行しています。さらに為家の名前を実忠に改名したらと言われたらしいです。定家は彼は縁戚で同名は困りますと断っています。
考えられるとすれば、公国が大江広元女を正室に迎えたので、長男であった実忠は公明の猶子という形にしたのでは。実忠は公明の邸と同じく綾小路に邸があったので、居住は公明で実父は公国という感じかと。実忠は後鳥羽院の寵臣だったこともあったからか、五辻家経女(家経は兼雅の二男。母は平清盛長女。娘の母は不明。藤原成親女か高階泰経女かどっちか。あるいは他の女性が生んだ女か)と結婚し公直、女子、公惟が生まれます。公直は「弁内侍日記」では公忠中将とあり、「明月記」でも公忠とあるので本名は公忠で何らかの事情で公直に改名されたのか。公直は「公卿補任」に叙爵から従三位になるまでの記録がまったくない、という異例というか異質。日記を追うと端々に管弦が得意であったので宴でその名が出てくるのですが、その系譜もぼんやり。

大徳寺文書のことは気にとどめる程度がいいと思います。
実忠は関係ないですが別の所領を伝領していたことがわかっています。妻の五辻家経女が父家経から伝領した所領がありました。娘の実忠女に伝領、妹実忠女が死去したので出家後ではあったようですが公直が伝領したようです。公直には晩年生まれた実綱という子どもがおり彼にその所領を譲っていません。家経直系ではないから、ではないかと。
その所領、元は五辻斎院の所領だったとあります。家経が五辻号を名乗ったのは五辻エリアに邸があったからのようですが、その実、五辻斎院の邸が火事になった時、斎院の猶子だった静恵法親王とともに醍醐第まで駆けつけています。そしてすべて譲られた所領のはずが1つだけ残し、それを何故家経に譲ったのか。預所は日野家庶流が行なっており(中には親鸞がいる)、公直の後は日野家が領主、預所両方となり、さらに東山湛照が開いた三聖寺に寄進されたとのこと。

書き散らすだけ書き散らしてスッキリした。
まとめる気はありませんでした、すいません。

  1. 生母は少将内侍こと平義範女。平義範は平範家の第二子で母は藤原清隆女。平範家女(義範の姉妹)を妻としていた藤原経房は惟明親王の後見となるのですが、その背景には平範家、平義範女の生母であった平信業女の叔母平信重女こと坊門局が藤原為通の養女となっていた。その経緯は不明。藤原為通女が藤原成範の妻となり通成を生んでいる。その関係か少将内侍は当初別の邸で出産する予定だったけれど火事が起こり、成範の異母兄澄憲の庵で惟明を出産している、とある。 ↩︎

現在療養中のためフリーランスを装いながら無職モードで細々生息中。海外ドラマからWebネタ、ゲーム・Apple・iPhone・音声合成・MMDなどの様々なガジェットを、おばちゃん視点で紹介しています。

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